光秀のライバル・秀吉はどんな人だった?
織田信長の重臣として、天下にその名を知られた「明智光秀」。
彼の戦国武将としての最大のライバルこそ、後に天下を取った羽柴(豊臣)秀吉です。
天下人である秀吉については、いまさら説明の必要も無いでしょうが、念のためご紹介しておきましょう。
秀吉は信長と同じ尾張(今の愛知県西部)に生まれました。
彼は低い身分の出身にもかかわらず、信長にその才能を認められ、武将として取り立てられました。
その後、美濃(今の岐阜県南部)や近江(今の滋賀県)などの攻略で手柄を立て、織田家の有力武将の仲間入りをしたのです。
信長の重臣には、織田家の武将の筆頭格である柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、さらには目覚しい出世をとげた光秀などがいました。
秀吉はそんな彼らに匹敵する地位に上ったのですから、その才覚のほどがうかがえます。
秀吉の働きで特に注目すべきなのは、敵方の武将と交渉し、その多くを味方につけている点です。
いくら信長や秀吉の軍が強いといっても、すべての敵と激しく戦っていては、たとえ勝っても大きな損害を受けてしまいます。
だからこそ秀吉は、敵の武将を味方につける交渉に力を注ぎ、できるだけ被害をおさえて勝つように努力したのです。
信長が秀吉に見出した才能のひとつが、この交渉力だったことは間違いないでしょう。
秀吉はまた、光秀とともに命がけの戦いをしたことでも知られています。
1570年、信長は越前(福井県)の朝倉氏を攻撃するものの、同盟者であった近江の浅井氏に裏切られ、逃げ場を失ってしまいました。
ここでは光秀が軍の最後尾で奮戦し、信長を無事に退却させたのですが、このとき秀吉も光秀とともに戦ったのです。
後の二人の因縁を思うと不思議な気もしますが、とにかく光秀と秀吉は信長のもとで大きな功績を挙げ、ともに織田家の重臣となったのです。
後に信長は、光秀に丹波の平定を、秀吉に中国地方の攻略をそれぞれ命じます。
光秀は1579年に丹波を制圧しますが、秀吉も負けずに織田家の領土を広げ、中国地方の覇者・毛利氏と渡り合います。
(後に光秀が本能寺の変で信長を討ったときも、秀吉は毛利氏との戦いの真っただ中にいました。
そのお話は後ほど詳しくいたします)
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光秀にとっての秀吉の存在―――運命の輪・正位置
光秀と秀吉は、信長のもとでしのぎを削ったライバル同士として語られがちです。
しかし、その一方で大きな共通点もあります。
それは「裸一貫から」信長の重臣に上りつめた点です。
柴田や丹羽らは古くから尾張の武将の家柄でしたが、秀吉は低い身分から信長に認められ、織田家有数の武将になりました。
対する光秀は武将の家柄ではありましたが、戦乱に巻き込まれて本拠地を失い、紆余曲折を経て、それまで縁もゆかりも無かった信長に仕えました。
裸一貫からのし上がり、信長の重臣になったという点で、光秀と秀吉には共通点があると言えるでしょう。
光秀と秀吉は、ともに織田家においては「新参者」ではあったものの、そろって目覚しい出世を遂げました。
ともに有能だった彼らは、信長の勢力拡大に多大な貢献をして、重臣の地位を得たわけです。
織田家中の出世争いにおいて、まさに宿命のライバルであった光秀と秀吉。
光秀にとって、秀吉とはどのような存在だったのでしょうか?
タロットに尋ねたところ……「運命の輪」の正位置が導かれました。
これは「運命の転換点」「好機の到来」を意味しています。
運命の輪の正位置は、どちらかというとポジティヴな解釈がされるカードです。
光秀にとっての秀吉は、織田家での出世を争うライバルでした。
彼の戦国武将としての夢も、この秀吉によって打ち砕かれたわけです。
そんな因縁の相手である秀吉について、どうして光秀のビジョンは運命の輪を正位置で導いたのでしょうか?
光秀の「運命の転換点」となった秀吉
出典:ashinari.com
思うに、まず「運命の転換点」というのが大きなキーワードになるかもしれません。
信長はその晩年に大きな政策変更をしており、それが光秀の運命に大きな影を落としています。
それは、四国に対するアプローチの転換でした。
これは歴史的にややこしい話になるので、占いサイトですべてをお話しすることはできませんが……ざっくり言うと以下のようになります。
当初、信長は四国と向き合う上で、現地の有力大名である長宗我部(ちょうそかべ)氏と友好関係を結んでおり、光秀にその外交を担当させていました。
長宗我部氏と上手く連携しつつ、四国を信長に都合よくコントロールするのが、光秀の仕事だったわけです。
ところが、この信長の四国政策を180度転換させた男がいました。
光秀のライバルである秀吉です。
秀吉の意見によって、信長は友好を結んでいた長宗我部氏に対し、徐々に圧力を加えはじめるようになります(長宗我部氏の勢力が大きくなりすぎては、信長にとって不都合という事情もありました)。
こうなると、困ってしまうのは光秀です。
信長の政策転換によって、四国外交担当者としての光秀の面目は、丸つぶれになってしまいました。
加えて、これまでの四国との交渉での苦労が、すべてが水の泡になってしまったわけです。
武将としてのプライドをつぶされたうえ、手塩にかけて育てたプロジェクトが台無しになり、さらにはこれからの仕事ビジョンも見えなくなった……
命がけで信長のために働き続けた光秀は、非常な絶望感を覚えたのでしょう。
ともあれ、こうした信長の政策転換こそが、光秀と信長の信頼関係を壊してしまい、本能寺の変の遠因になったとも言われています。
となれば、そのきっかけを作ったのは、他ならぬ秀吉です。
秀吉こそが、光秀の運命を転換させた張本人……そう考えれば、運命の輪の正位置が導かれるのも、納得がいくのです。
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