義昭を離れ、信長の家臣に―――月・正位置
1568年、将軍・足利義昭を織田信長と結びつけるという、大仕事をやってのけた「明智光秀」。
その後、彼は義昭と信長の両者に仕えることとなります。
将軍や京都の政治に関わる業務をこなしつつ、信長の命に従って各地を転戦する立場となったのです。
この時期の彼の戦歴は大したものです。
たとえば、将軍義昭の居所が敵に襲われた際、少ない軍勢をよくまとめて戦い、信長の援軍到着まで持ちこたえています。
あの有名な「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)での奮戦も特筆すべきものです。
1570年、信長は越前の朝倉氏を攻撃しますが、途中で同盟者である浅井氏(注)にまさかの裏切りを受け、逃げ場を失ってしまいました。
このとき光秀は、軍の最後尾で命がけの戦いを演じ、信長を無事に退却させることに成功したのです。
(注)浅井氏の裏切り……信長は近江(今の滋賀県)の大名・浅井氏と同盟し、当主の浅井長政に妹のお市を嫁がせて関係を強化した。
しかし信長が金ヶ崎の戦いで越前朝倉氏を攻めると、長政は信長から離反し、その退路を断つ行動に出た。
背景には、浅井氏と朝倉氏の関係が深かったことや、浅井家中で反信長の勢力が力を持ったことなどがあると見られている。
これらの華々しい戦いぶりに加え、京都の政務などの難しい仕事もこなしていた光秀。
信長にも高く評価され、近江に5万石の領地を与えられました。
若い頃の不遇がウソのように、一躍出世を遂げたのです。
こうして栄光の戦国ロードを歩みだした光秀ですが、やっかいな事態が彼を襲います。
信長と将軍義昭との関係が次第に悪化したため、光秀の立場も難しいことになってきました。
信長につくか、将軍につくか―――光秀は難しい二者択一を迫られたのです。
この人生の岐路における、光秀の胸中について占ってみました。
タロットに尋ねたところ……「月」の正位置が導かれました。
「闇」あるいは「不安」といった内容の暗示です。
そう。信長と義昭が決裂したとき、光秀は先が見えない不安で一杯だったはずなのです。
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一寸先は闇―――戦国時代の怖さ
たしかに、光秀に5万石もの領地を与えてくれたのは信長です。
とはいえ先の回でも述べたように、光秀はブランド志向の強い人物だったと推測されます。
従って、「室町幕府の将軍」というブランドに対しても、強い畏敬の念を持っていたと考えられるのです(そのような光秀だからこそ、義昭の外交交渉に参画できたのでしょう)。
いかに信長が日の出の勢いとはいえ、織田家は将軍家のような名門ブランドではありません。
ひとたび信長の勢力が衰えれば、すぐに滅びてしまう可能性もあります。
はたして、「将軍」という確かなブランドを持つ足利義昭から、本当に離れていいのか―――
後世の日本人が思う以上に、この時の光秀は悩んだと考えられるのです。
結局はだれもが知る通り、光秀は義昭のもとを離れ、信長の家臣としての立場に専念することとなりました。
信長と義昭が軍事衝突した際は、信長方の武将として参戦しています。
その胸中は、先が見えない不安で一杯だったことでしょう。
それでもこの決断で、光秀の前途には、信長の重臣への道が開けてきたのです。
なお、果敢に信長に挑んだ義昭ですが、あっけなく敗れ、京都を追放されてしまいました。
こうして1573年、室町幕府は事実上崩壊したのです。
各地を転戦、信長の右腕に―――太陽・正位置
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こうして、信長専属の家臣となった光秀は、織田家の重臣へと急激に出世していきます。
とはいえ、信長に重用されるがゆえに、課せられた仕事も極めて難しいものでした。
信長は光秀に、京都の北西部にあたる丹波国の制圧を命令します。
しかもそれと同時に、別の地域への出陣もたびたび命じられたのです。
(他の重臣たちも、光秀と同様に各方面の攻略を任されました。
北陸方面の柴田勝家、中国方面の羽柴(豊臣)秀吉などがそれにあたります。
とはいえ、彼らは比較的自分の担当地域に専念しており、光秀ほど各方面の戦場に借り出されることはありませんでした)
丹波の攻略だけでも大仕事なのに、加えて各地の戦場へも駆けつけなくてはならないのです。
よく言えばフル回転、悪く言えばコキ使われているというのが、この時期の光秀の実態でした。
まさに酷使とも言うべき使われ方ですが、はたしてこの時期、光秀はどんな想いで戦っていたのでしょうか?
タロットに尋ねたところ……「太陽」の正位置が導かれました。
「エネルギー」「成功」あるいは「希望に満ちた未来」が暗示されています。
無限のエネルギーを生んだ「武将の生きがい」
かつて不遇の時代を過ごした光秀は、何よりも自分の力を生かせる仕事を求め、武将として名を挙げることを望んでいました。
そんな光秀にとって、織田家の大軍団を率いる立場はまさに理想の実現であり、武将としての成功そのものだったはずです。
だからこそ、各地を忙しく転戦しつつも、エネルギーと未来への確信にあふれていたのでしょう。
もちろん、この時期の光秀が並外れたハードワーカーだったことは明白であり、過労で倒れることもあったといいます。
それでも彼はすぐに戦線に復帰し、信長の天下統一のために激務をこなし続けました。
太陽の正位置が示すように、この時期の彼は理想の武将人生を送っていました。
仕事へのやりがい、武将としての生きがい、そして明るい未来への確信。
こうした前向きなエネルギーこそが、「信長の右腕」光秀を支えていたのです。
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